8月3日の日記
 
大好きで仲良しの数学者ニコライ氏が、マスカットを
送ってくれた。
昨夜、お礼がてら久しぶりに電話をかけると、彼は
待ってましたとばかりにある理論についてのアイデアを
披露してきた。

ニコライ氏は私より年上だけれど、10年位前とある試験を
取得する為の学校で知り合った当初から非常にウマが合い、
お互いのアイデアに対してもすんなり理解し合う(そして
過剰に称賛し合う・笑)事が多い、気のおけない仲。

けれど今日彼が披露してくれたアイデアは、頭の中にすんなり
とは入ってこず、彼は私の反応の鈍さにガッカリした様子。
私の反応が鈍かったのは、実は数学とは全く関係ない所で、
心とらわれる事があったからなのだけれど、彼には上の空で
話を聴いていたとは言えなかった。

「クリオネ、本業に専念したら?・・二兎追うものは一兎をも
得ず」と、心許無さを感じたらしい彼は、ちょっぴり皮肉交じり
にそう言ってきた。
「君にとって数学は片手間・・」と、実にシニカルに続ける。
本気ではないので軽くかわしたけれど。

それに本音を言えば、今回の彼の閃きは、公平に言って
さほどの鋭さを感じなかったのが事実で、つまり私の思考を、
物想いから数学に呼び戻す程には光るものがなかったという
のが本当だ。

異常に細分化された純粋数学という分野の中で、元々彼と私の
興味の対象はずれているから、お互いのテーマを真に掘り下げて
ゆくまでには至らない。
ただ、私の研究領域は一般的な研究者のそれに比べて少し広い。
それで新たな閃きが湧くと、彼はそれを私に披露してくれるのが
習慣になっているのだ。

と、こんな風に書くと、きっと余程優秀な研究者なのかと思われる
かもしれないが、実際にはそういう訳ではない。
ただ、理由はともかく、私の専攻する分野は純粋数学の中でもかなり
難解な領域であるから大抵は修得する範囲が限られるのに対して、
一体何の酔狂か若干広範囲に手をつけている・・・という意味合いに
於いて私の研究領域が広い、というのは事実だ。

私は自分の数学的アプローチがかなり特殊だという自覚がある。
それは、数学的才能が別段秀でている訳ではない、という自覚と
共に存在する。
私の数学の論理的思考は、幼少のころから万物思想的な思考によって
発生してきたのだが、これには比喩的な意味合いは含まれていない。
なにがしかの科学から、万物との僅かな繋がりを見い出す事により、
その法則のメカニズムを断片的に感ずる事があるのは、
科学のいずれかを専門とする多くの人間の常だ。
特に純粋数学をやっている人間ならば、そういったことを、何れ、
しかもかなり早い時点で、しかし殆ど慣習的に覚るものである。
でも本当のところ、それでは全く意味がないのだ、実際に。

しかし、私はこの話を何人もの数学者にした事があるのだが、
その本質を真に理解したと思われる者は皆無だった。
しかし興味深い事に、暫し問答を繰り返した後で皆一様に解ったと言う。

先に触れたように、数学者、或いは某かの分野を修めたり
極めたりした者が、憖じっか哲学思想的な事に足を踏み入れたがる
傾向にある、或いは無意識にその領域に浸るという事は割りとありがち。
けれど、それは摂理から漠然とコトを理解し、自ら目覚めたのでは
決してなく、飽くまでも学問を継承する過程で無意識に植えつけられ、
熟され、いつの間にやら自分のものになっている思考であり、煩瑣な事を
思考する癖が自ずと解釈するレベルでしかない。

無論、凡そ物事というものは、その人なりの解釈という次元で
成り立っている訳であるから、それも一つの理解に違いないの
だが、結局、その程度の把握に止まる。

そういう意味に於いて言えば、ニコライは自分がただ一介の
数学者であり、他のいかなる学者も己が何者でもないという
事を知れ、という認識と謙虚さを持った、学者には珍しい、
実に捌けたタイプの、尊敬できる友なのだ。

コメント

yasai
yasai
2008年3月13日22:51

数学は哲学だと思います。数学には感謝するけど、僕にはできないと何度も失敗して思いました。

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