安らかに・・・
2013年10月28日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれSput2ko!
2013年10月28日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれこういう人・・・一番タチが悪い。
メディアラボって、こういう話題性が命みたいな
人物が大好きで平気で雇うの。
助教という名のアルバイトで、学位がなくても
関係なし。MITらしい。
そもそも理系で学位のない人物に大学で何が
出来るというの?
あ、学者としてじゃなく、アーチストとして招かれ
たのね・・だったら数学を前面に出さないで頂き
たいものだわ。
両親とも数学者?・・・へぇ、でも情報系でしょ?
数学やってたら、応用系の人が自らを‘数学者’
だなんて中々言えないものだと思っていたわ。
中島さ〇子さんなども、数五輪の栄光で未だに
数学を振りかざしていて驚いてしまう。
数学は博士課程以降からが初めて本当の数学
というドアをノックする分野なのに、数五輪だとか
学部卒業だなんて数学の入り口にも立っていない。
それなのに本を出したり、研究続けていくみたいに
平気で言っちゃうの。
しかも何やらパートナーは三流数学者の秋山博士
みたいなのだけれど(笑)
研究?・・・その前に学位をお取りなさいな?
所詮、自分は数学世界に生き残るセンスがなかった
のだと認めるべき。
ちょっと前にH大の白熱教室で人気の日本人女性が
世界に誤解を与えかねない歴史を講義してたけれど、
彼女も‘数学史’なんて聞いたこともない分野を作り出して
英国のC大に一年限りでしがみ付いているっけね。
彼女らのキャリアって、知らない人に誤解を与えかねない
一種のサギみたいなものだって感じるわ。
リケジョとかいうクダラナイ呼び名でもてはやすものだから
その影響かしら。
にがてストレス
2012年12月3日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれネットは自称評論家ばかりで全く
タチが悪いったらありゃしない。
どんな分野も何の裏づけもない
自称評論家だらけの、素人総
評論家時代。
その自称評論家とやらがネットに
よって立派な専門家に仕立て上げ
られてしまう、真に恐ろしい世の中。
そんなのに絡まれるのは堪らないわ。
せいぜい感想程度にとどめておける
お利口さんはいないものかしらね?
愚かも数が足りれば、何れは厄介に
なるものよ。
そこいくと、メンヘラおばさんなんて
可愛いものよね。
ちょいとおべんきょした事や聞きかじった
ことを、まるで一家言ヨロシク一丁前に
つらつら書き綴っちゃったりして(笑)
綴る事で自らの無恥を晒すだなんて、
まぁ相変わらず素敵すぎちゃうわ~。
思えば震災後、原発関連のことでも稚拙な
文章を何度も晒していたっけね。
そこらの主婦の街頭インタビューと同じレベル。
何をどれだけ学ぼうと、どんなに優れた記事を
読もうと、如何に優秀な人間に触れようとも、
メンヘラおばさんはメンヘラおばさん。
元々持ち合わせてないモノには、触れようが
ないものなのよ?
まぁ、その分野なら地道におべんきょしてれば
何れは学位くらいは取れるでしょうから、唯一の
この場所で素敵なキャラ作りに励んでね(笑)
いやいや、
2011年1月6日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれただ単に、境界線を引いているだけの話。
学問を日常に持ち込まない、それだけ。
特に、インターネットなんぞに於いては。
それが、学者としての苛立ちを回避する
唯一の手段。
それがどんな意味を持つのか理解できない輩は、
とどのつまり、一流の学者じゃないってこと。
2010年11月1日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれ
それは単なる、数多ある、数学的な誉れに過ぎない。
ツナガリを見い出せなければ如何なる証明も、
それは唯の勲に過ぎないのだよ。
真に偉大な証明とは・・・。
なんて、尤もらしい事なら三流の学者でさえ言ってること。
・・・真の意味も知らずにね。
人心地
2010年4月27日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれとある文章に目を通していた時、その言葉に目が釘付けになった。
・・暫し無言で凝視した【人心地がつく】という何気ない言葉。
これ、だったのか・・・。
かれこれ6,7年にもなろうか、一度も味わえずにいたものの正体。
こんな得も言われぬ重度の離人感も、このありふれた言葉をもっと
早くに目にしていたならば、きっとこの世とも多少はしっくりして
こられただろう。
人より早く積学したり、大病したのが理由ではない。
何か重大な罪を犯した人間・・人を殺めてしまったり、思いがけず
誰かの人生を台無しにした様な人間が、きっと似た様な感覚で生きて
いるのだろう・・・ただ漠然とではあるが、いつもそんな風に考えて
きたのだが、さても人心地がしないとは何とも言い得て妙。
10月1日の日記
2007年10月1日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれ コメント (1)
遠隔(PCと電話)で家庭教師をしている私の生徒の一人の話・・。
まぁ、生徒といっても私より若干年上の彼なのだが、理論物理から
鞍替えして純粋数学者を目指すという無謀。逆ならアリなのだけど。
本人は全く自覚していないのだが、時折ちらりと覗かせるある種の
数学的な思考を垣間見る度に資質がないと感じる。
物理では前途洋洋だと紹介者から聞いているし、過去には両親と同じ
医学の道も考えたらしいが、努力で叶う道には興味が湧かないらしい。
どうやらそんな性質も手伝ってか純粋数学に魅せられ憑りつかれ・・、
敢えて茨の道を選ぼうとしているらしい。
何れにしても遅かれ早かれ彼がこの分野で挫折するのは目に見えている。
恐らく数学のキャリアは一学生として終えるだろう。
物理ならば好きこそもののなんとやらで何とかなるし現実的だから本業は
そちらにして、悪いことは言わないから純粋数学は一マニアとして高尚で
深遠なる趣味として続けるのが無難。
元々物理では世界トップの場所に籍を置いていた訳だから、そこで究め
ればいい・・さて、どう伝えたらよいものか。
どちらにせよこれからの事を今一度改めて話し合うべき時か・・でないと、
教える側の私の身が入らない。
確かに本人が恐らくそのことによって強く刺激された様に、純粋数学は厳密に
言うところの自然科学や医学とは違って、努力や好奇心だけではどうにもなら
ない、素質があるか否かで道に進めるかが決まる。
つまり生まれ待ったセンスがあるか否か・・ある時点からどんなに努力しても
どんなに好きでも、それだけでは到底補うことのできない、その道に進むこと
すらできない、唯一の学問。
そしてそのセンスが純粋数学者としてのそのままの力量・・といっても過言
ではないので、唯、数学が好きだという気持ちや、義務教育時に浴びてきた
羨望などの数学的栄光などが選択理由では必ず行詰まる。
実際、興味があれば純粋数学者が応用数理科学の凡そを理解できない
事はない。
純粋数学者がそれを軸に、他の自然科学や哲学や医学その他の分野を
修めるという事は自身を含め間々あるが、その逆は殆どない世界なのだ。
その事は既にやんわり伝えているも、いたく前向きだからか今いち通じて
いない・・・いやはや中々面倒ではないか。
こんな風に、そこいら辺をいまいち理解できていない物理屋さんが多過ぎて
心底驚いてしまう・・・まぁ、ピュアマスに生き残れなかっただけのクセして、
強がりながら離れてゆく応用さんよりはまだいいけど。
実際、彼の数学力と学ぶ意欲や好奇心があれば、物理やコンピューター、
理論経済でなら名だたる施設に身を置き続けることは可能だろう。
無論、これは純粋に学問としての話だから・・・その人間的な資質だとか、
実務的な器量だとかとは、まぁ全く別の話だけれど。
※純粋数学を突き詰めて考えた場合の話で、
他の学問を見下すものではありません。
まぁ、生徒といっても私より若干年上の彼なのだが、理論物理から
鞍替えして純粋数学者を目指すという無謀。逆ならアリなのだけど。
本人は全く自覚していないのだが、時折ちらりと覗かせるある種の
数学的な思考を垣間見る度に資質がないと感じる。
物理では前途洋洋だと紹介者から聞いているし、過去には両親と同じ
医学の道も考えたらしいが、努力で叶う道には興味が湧かないらしい。
どうやらそんな性質も手伝ってか純粋数学に魅せられ憑りつかれ・・、
敢えて茨の道を選ぼうとしているらしい。
何れにしても遅かれ早かれ彼がこの分野で挫折するのは目に見えている。
恐らく数学のキャリアは一学生として終えるだろう。
物理ならば好きこそもののなんとやらで何とかなるし現実的だから本業は
そちらにして、悪いことは言わないから純粋数学は一マニアとして高尚で
深遠なる趣味として続けるのが無難。
元々物理では世界トップの場所に籍を置いていた訳だから、そこで究め
ればいい・・さて、どう伝えたらよいものか。
どちらにせよこれからの事を今一度改めて話し合うべき時か・・でないと、
教える側の私の身が入らない。
確かに本人が恐らくそのことによって強く刺激された様に、純粋数学は厳密に
言うところの自然科学や医学とは違って、努力や好奇心だけではどうにもなら
ない、素質があるか否かで道に進めるかが決まる。
つまり生まれ待ったセンスがあるか否か・・ある時点からどんなに努力しても
どんなに好きでも、それだけでは到底補うことのできない、その道に進むこと
すらできない、唯一の学問。
そしてそのセンスが純粋数学者としてのそのままの力量・・といっても過言
ではないので、唯、数学が好きだという気持ちや、義務教育時に浴びてきた
羨望などの数学的栄光などが選択理由では必ず行詰まる。
実際、興味があれば純粋数学者が応用数理科学の凡そを理解できない
事はない。
純粋数学者がそれを軸に、他の自然科学や哲学や医学その他の分野を
修めるという事は自身を含め間々あるが、その逆は殆どない世界なのだ。
その事は既にやんわり伝えているも、いたく前向きだからか今いち通じて
いない・・・いやはや中々面倒ではないか。
こんな風に、そこいら辺をいまいち理解できていない物理屋さんが多過ぎて
心底驚いてしまう・・・まぁ、ピュアマスに生き残れなかっただけのクセして、
強がりながら離れてゆく応用さんよりはまだいいけど。
実際、彼の数学力と学ぶ意欲や好奇心があれば、物理やコンピューター、
理論経済でなら名だたる施設に身を置き続けることは可能だろう。
無論、これは純粋に学問としての話だから・・・その人間的な資質だとか、
実務的な器量だとかとは、まぁ全く別の話だけれど。
※純粋数学を突き詰めて考えた場合の話で、
他の学問を見下すものではありません。
8月16日の日記
2007年8月16日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれ
2ヶ月弱の期間、遠隔家庭教師を引き受ける
事になりました。
生徒は、数学(純粋)科の学生さん。
春先の1ヶ月余り、同じ学科の生徒の家庭教師を
務め、多少自信がついたのと、バイト料が私の中
では破格だったので、引き受けました(笑)
・・開始は来週末からの予定。
事になりました。
生徒は、数学(純粋)科の学生さん。
春先の1ヶ月余り、同じ学科の生徒の家庭教師を
務め、多少自信がついたのと、バイト料が私の中
では破格だったので、引き受けました(笑)
・・開始は来週末からの予定。
8月14日の日記
2007年8月14日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれ8月3日の日記
2007年8月3日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれ コメント (1)大好きで仲良しの数学者ニコライ氏が、マスカットを
送ってくれた。
昨夜、お礼がてら久しぶりに電話をかけると、彼は
待ってましたとばかりにある理論についてのアイデアを
披露してきた。
ニコライ氏は私より年上だけれど、10年位前とある試験を
取得する為の学校で知り合った当初から非常にウマが合い、
お互いのアイデアに対してもすんなり理解し合う(そして
過剰に称賛し合う・笑)事が多い、気のおけない仲。
けれど今日彼が披露してくれたアイデアは、頭の中にすんなり
とは入ってこず、彼は私の反応の鈍さにガッカリした様子。
私の反応が鈍かったのは、実は数学とは全く関係ない所で、
心とらわれる事があったからなのだけれど、彼には上の空で
話を聴いていたとは言えなかった。
「クリオネ、本業に専念したら?・・二兎追うものは一兎をも
得ず」と、心許無さを感じたらしい彼は、ちょっぴり皮肉交じり
にそう言ってきた。
「君にとって数学は片手間・・」と、実にシニカルに続ける。
本気ではないので軽くかわしたけれど。
それに本音を言えば、今回の彼の閃きは、公平に言って
さほどの鋭さを感じなかったのが事実で、つまり私の思考を、
物想いから数学に呼び戻す程には光るものがなかったという
のが本当だ。
異常に細分化された純粋数学という分野の中で、元々彼と私の
興味の対象はずれているから、お互いのテーマを真に掘り下げて
ゆくまでには至らない。
ただ、私の研究領域は一般的な研究者のそれに比べて少し広い。
それで新たな閃きが湧くと、彼はそれを私に披露してくれるのが
習慣になっているのだ。
と、こんな風に書くと、きっと余程優秀な研究者なのかと思われる
かもしれないが、実際にはそういう訳ではない。
ただ、理由はともかく、私の専攻する分野は純粋数学の中でもかなり
難解な領域であるから大抵は修得する範囲が限られるのに対して、
一体何の酔狂か若干広範囲に手をつけている・・・という意味合いに
於いて私の研究領域が広い、というのは事実だ。
私は自分の数学的アプローチがかなり特殊だという自覚がある。
それは、数学的才能が別段秀でている訳ではない、という自覚と
共に存在する。
私の数学の論理的思考は、幼少のころから万物思想的な思考によって
発生してきたのだが、これには比喩的な意味合いは含まれていない。
なにがしかの科学から、万物との僅かな繋がりを見い出す事により、
その法則のメカニズムを断片的に感ずる事があるのは、
科学のいずれかを専門とする多くの人間の常だ。
特に純粋数学をやっている人間ならば、そういったことを、何れ、
しかもかなり早い時点で、しかし殆ど慣習的に覚るものである。
でも本当のところ、それでは全く意味がないのだ、実際に。
しかし、私はこの話を何人もの数学者にした事があるのだが、
その本質を真に理解したと思われる者は皆無だった。
しかし興味深い事に、暫し問答を繰り返した後で皆一様に解ったと言う。
先に触れたように、数学者、或いは某かの分野を修めたり
極めたりした者が、憖じっか哲学思想的な事に足を踏み入れたがる
傾向にある、或いは無意識にその領域に浸るという事は割りとありがち。
けれど、それは摂理から漠然とコトを理解し、自ら目覚めたのでは
決してなく、飽くまでも学問を継承する過程で無意識に植えつけられ、
熟され、いつの間にやら自分のものになっている思考であり、煩瑣な事を
思考する癖が自ずと解釈するレベルでしかない。
無論、凡そ物事というものは、その人なりの解釈という次元で
成り立っている訳であるから、それも一つの理解に違いないの
だが、結局、その程度の把握に止まる。
そういう意味に於いて言えば、ニコライは自分がただ一介の
数学者であり、他のいかなる学者も己が何者でもないという
事を知れ、という認識と謙虚さを持った、学者には珍しい、
実に捌けたタイプの、尊敬できる友なのだ。
8月2日の日記
2007年8月2日 純粋数学と執筆に纏わるつれづれ コメント (2)
専門誌の執筆でお世話になっている編集部から
宅配便が届いた。
中身は自分が携わっている雑誌と、それに関連する
その他の専門誌、それから編集部に毎月送られてくる
自分宛ての手紙。
これは数学の方ではなくて、もう一つの仕事の方のお話。
私宛ての手紙は、月に数通から多い時で数十通ある。
殆どが素人専門家からのもの・・平たく言えば亜流。
その自信と根拠が一体どこからやってくるのかは知らない
けれど、質の悪い一家言を恐ろしく無駄な比喩表現などを
用いて高飛車に綴ってくる手紙。
大方の内容は、私が書いた物に対する批評、はたまた質問等の
一方的な物がほとんどで、稀には相談めいたものまである。
偉大な思想家や哲学者、作家の名をやたらと引っ張り出して、
ご丁寧にそこに注釈まで加えながら、それら歴史的人物の理論を
テキスト通りに、或いは批判的に(無論、無自覚に)説明してくれるのだ。
殆ど例外なく己を‘普通の人間とは違う才能’の持ち主だと
信じて疑わない不思議は‘凡その人間には理解され難い程の
才能’によるものだという、まるで根拠のない自負心により
培われている。
それはあたかも自らが専門家であるかの様な物言いばかりで、
まるで謙虚という言葉自体を知らぬ様。
それがどんな場合でも一定の敬意を示すというのは己の器量。
私はこういった手合いを相手にしないと何時からか決めている。
いちいち読んでいては限がないし、そもそも意味がないもの、
という認識。
対応すること自体にきりがないのではなく、憚らずに言って
しまえば、手紙の送り主の大半が独りよがりな輩であるから。
そこに僅かな才能、或いはその芽を感じさえすれば、この限り
ではないけれど。
この分野の恐ろしいところは、数学と違って言葉さえ分れば
幾らでもどこからでも入り込めるし、その気になれば一見一端の
発言ができる、故にタチが悪い。
その解釈に於いては、どんなに説明してみてもないものには
触れようがない上に、殆どが無自覚だから尚更厄介。
そして残念ながら、非礼をチャラにできるような才能には未だ
嘗てお目にかかったことがない。
私は例えいかなる分野が対象であっても、更にそれがいかなる
次元で述べられたものであっても、凡そ素人(評論家)というものを
好まない(実際、ちょっとでも利口なら評論は腹の中だけにして、
感想程度に止めておくというもの)。
彼等はまず同じ土俵に立たなければ己の言葉が意味を成さず、
また真実みさえも帯びず、無形ではあるものの、ある種の権利
すら持ち得ないという事を知らない、と常々強く感じるもので
あるから。
つまり、それすら悟らないという事自体、そもそもがその程度
であるという結論。
権利を得なければ言葉すら発する事ができがない、と言ってい
るのではなくて、わきまえる事を知らぬ者は、まだ何も知らぬ
者に等しい、という意味に於いて取るに足らない存在。
外野からものを言う程簡単な事はない。
例え、その中に幾許か真理が含まれていようとも(驚くべき
ことに、真理いうものは、どんなに愚かな思考の中にさえ、
あらゆる次元で幾許かそこに潜んでいるものだから)。
如何なる分野に於いても、その海の中に入って初めて、その
深淵さや冷たさを実感するものであると思う。
例えば、患者が如何に己の病気に詳しなったつもりであろうと、
患者はただの患者である。
対等なつもりの勘違い、仮にその知識が本物ならば、その滑稽
さに気付いて、自らわきまえるであろう。
自ずとわきまえる・・これはもう研究者としてもただ人としても、
力量や才能を計る共通の物差しでもあるとも考える。
人は知れば知るほどわきまえるものであるから。
テレビで生ビール片手にナイターを観ながらヤジを入れる
のとはわけが違う。
プロ野球選手相手にバッティングフォームを指摘する草野球
チームの素人の如く無礼。
百歩譲って、縦んばその指摘が的を得ていたとしても(そう
いった事は可能性として往々にして有り得ることだけれど)、
つまりはそこら辺の振る舞い方が肝心なのだという話。
めんどくさー・・・支離滅裂だけれど、まぁいっか。
それに実際の話、私にはある思惑があって、これらの執筆には
敢えて幾許も魂を込める事をせずに、今の所、唯ひとえに生活
の為の執筆と割り切っている。
故に、そういう類の手紙が送られてきて気まぐれに開封する事は
あっても、最近ではきちんと読む事すら稀である・・。
宅配便が届いた。
中身は自分が携わっている雑誌と、それに関連する
その他の専門誌、それから編集部に毎月送られてくる
自分宛ての手紙。
これは数学の方ではなくて、もう一つの仕事の方のお話。
私宛ての手紙は、月に数通から多い時で数十通ある。
殆どが素人専門家からのもの・・平たく言えば亜流。
その自信と根拠が一体どこからやってくるのかは知らない
けれど、質の悪い一家言を恐ろしく無駄な比喩表現などを
用いて高飛車に綴ってくる手紙。
大方の内容は、私が書いた物に対する批評、はたまた質問等の
一方的な物がほとんどで、稀には相談めいたものまである。
偉大な思想家や哲学者、作家の名をやたらと引っ張り出して、
ご丁寧にそこに注釈まで加えながら、それら歴史的人物の理論を
テキスト通りに、或いは批判的に(無論、無自覚に)説明してくれるのだ。
殆ど例外なく己を‘普通の人間とは違う才能’の持ち主だと
信じて疑わない不思議は‘凡その人間には理解され難い程の
才能’によるものだという、まるで根拠のない自負心により
培われている。
それはあたかも自らが専門家であるかの様な物言いばかりで、
まるで謙虚という言葉自体を知らぬ様。
それがどんな場合でも一定の敬意を示すというのは己の器量。
私はこういった手合いを相手にしないと何時からか決めている。
いちいち読んでいては限がないし、そもそも意味がないもの、
という認識。
対応すること自体にきりがないのではなく、憚らずに言って
しまえば、手紙の送り主の大半が独りよがりな輩であるから。
そこに僅かな才能、或いはその芽を感じさえすれば、この限り
ではないけれど。
この分野の恐ろしいところは、数学と違って言葉さえ分れば
幾らでもどこからでも入り込めるし、その気になれば一見一端の
発言ができる、故にタチが悪い。
その解釈に於いては、どんなに説明してみてもないものには
触れようがない上に、殆どが無自覚だから尚更厄介。
そして残念ながら、非礼をチャラにできるような才能には未だ
嘗てお目にかかったことがない。
私は例えいかなる分野が対象であっても、更にそれがいかなる
次元で述べられたものであっても、凡そ素人(評論家)というものを
好まない(実際、ちょっとでも利口なら評論は腹の中だけにして、
感想程度に止めておくというもの)。
彼等はまず同じ土俵に立たなければ己の言葉が意味を成さず、
また真実みさえも帯びず、無形ではあるものの、ある種の権利
すら持ち得ないという事を知らない、と常々強く感じるもので
あるから。
つまり、それすら悟らないという事自体、そもそもがその程度
であるという結論。
権利を得なければ言葉すら発する事ができがない、と言ってい
るのではなくて、わきまえる事を知らぬ者は、まだ何も知らぬ
者に等しい、という意味に於いて取るに足らない存在。
外野からものを言う程簡単な事はない。
例え、その中に幾許か真理が含まれていようとも(驚くべき
ことに、真理いうものは、どんなに愚かな思考の中にさえ、
あらゆる次元で幾許かそこに潜んでいるものだから)。
如何なる分野に於いても、その海の中に入って初めて、その
深淵さや冷たさを実感するものであると思う。
例えば、患者が如何に己の病気に詳しなったつもりであろうと、
患者はただの患者である。
対等なつもりの勘違い、仮にその知識が本物ならば、その滑稽
さに気付いて、自らわきまえるであろう。
自ずとわきまえる・・これはもう研究者としてもただ人としても、
力量や才能を計る共通の物差しでもあるとも考える。
人は知れば知るほどわきまえるものであるから。
テレビで生ビール片手にナイターを観ながらヤジを入れる
のとはわけが違う。
プロ野球選手相手にバッティングフォームを指摘する草野球
チームの素人の如く無礼。
百歩譲って、縦んばその指摘が的を得ていたとしても(そう
いった事は可能性として往々にして有り得ることだけれど)、
つまりはそこら辺の振る舞い方が肝心なのだという話。
めんどくさー・・・支離滅裂だけれど、まぁいっか。
それに実際の話、私にはある思惑があって、これらの執筆には
敢えて幾許も魂を込める事をせずに、今の所、唯ひとえに生活
の為の執筆と割り切っている。
故に、そういう類の手紙が送られてきて気まぐれに開封する事は
あっても、最近ではきちんと読む事すら稀である・・。